視点の転換。「死んだらわかる」という意味と、生きたままその境地に至る可能性について

たまに私が「霊媒師」としてここにいるのを見て、

じゃああなたはなんでもわかるんですよね?私の未来について教えてください

じゃああなたは失敗することがないということですよね?そうじゃないならやっぱり本物ではないということじゃないですか!

というような声をかけられることがある。だが私は別になんでもわかるわけではないし、自分の未来についてもあなたの未来についても断定的なことはなにもわからない。

しかも、実はこれもすごく大切なことだと思うのだが、

死んで霊になったとしても、それですぐに「なんでもわかる」ようになるというわけではないし、実際に霊同士でさえ、意見や見解が食い違うことはいくらでもあるのだから、その霊のなかの数人や数十人に話を聴いてみたとしても、それですぐに「真実」にたどり着けるわけではない

のだ。だからずっと言ってきたとおり、私も本質的にはあなたとなにも変わらない、ただの肉体人のひとりなのである。

ただその大前提を踏まえたうえで言うなら、私は確かに長年に亘る霊的経験の結果、現在の常識的視点から見れば、なかなかに異質で特殊な世界観を受け容れて生きるようにはなっている。そして

これは少なくとも私自身は相当に納得していることなので、もし少しでもあなたの役にも立てるなら嬉しいです

という想いのもと、それをここに共有し続けてきた。たとえばそれは

死後の世界(生まれる前の世界)はある

生まれ変わりはある

私たちの本質(魂)は永遠である

私たちは誰であれ必ず、好意や悪意を保った様々な存在から、影響を受け続けている(し、自分も周りに与え続けている)

というようなことでもあるのだが、それについてあなたが

でもそんなことは霊感を持っていない(としか思えない)私にはどうしたってわからないことじゃないですか?

と言われたら、それはそれで当然のことだとも思う。

だがそれでも私は

そうですね。でも私としては、それは「永遠にわからない」ということではないと思います。つまりあなたも実際に死んで霊になってみたら、私の言っていることが単なる嘘や思い込みだったのか、それとも本当の話だったのか、きっと自分でも理解できるようになるでしょうから

とは言える。つまりこれが私の、素直な気持ちなのである。

ただもしあなたが私の文章をよく読み込んできたひとだったら、もしかすると

でもあなたはいつも「肉体人と霊の違いは、肉体を保っている(肉体に宿っている)かどうかだけだ」と言っているじゃないですか?しかもこの文章の初めにだって「死んで霊になったとしても、なんでもわかるようになるわけではないし、見解の食い違いも多々ある」と書いてあるでしょう?それなのにどうして、「死んだらわかる」という話になるんですか?

といった疑問を抱くかもしれない。そしてこれは、実際かなり重要な疑問だとも思う。だから私は、今日ここでこの疑問と私の考えについて、一緒にもう少し掘り下げていこうと思う。

ただまず最初にひとつ言っておくと、

私が「死んだらわかる」と言い切れる理由は、「死んだら否が応でも視野が拡がる・生きているときには見えなかったものが見えるようになるから」なんだ

ということ、これがこれからの話のひとつの核心になる。そう、だから確かに私は

肉体人と霊の違いは、肉体を保っている(肉体に宿っている)かどうかだけだ

と言ってきたのだが、それをさらに補足するなら

それは「存在の本質は変わらない」という意味では確かにそうなんだけど、そのうえで「立場や視点」に関して言うなら、霊の立場や視点は、今の私たちとはだいぶ違う

と言うこともできるということなのだ。つまりこれを併せて言いなおすと、

死んで肉体を離れても、存在の本質は決して変わらないんだけど、でも立場や視点は確かに変化する。だからその意味ではやはり「まったくなにも変わらない」というわけではない

というのが、私の立場・考えなのである。

そしてこれをさらに掘り下げて

じゃあどうして、「死んだら視点が換わる」んだろう?

と考えるなら、それはやはり

死んだらたとえほんのわずかだとしても、「自分の苦しみだけに囚われた状態」から抜け出すことになるから

だというのが、ひとつの答えになるのではないかと思う。

ただこれも実際にはけっこう微妙な話で、死んで霊になると基本的には

「想い(想念)の影響力・感受性が肉体人の頃よりずっと上がる」

ので、その意味で

死んだら誰でもラクになる(≒成仏する)

と言えるわけではなくて、以前から

と言ってきたように、

むしろなかには「死んでからもっと苦しむ」という場合もある

ということなのだが、ただそれは確かに

「自分自身から逃れられなくなった」

結果でもあるだろうが、その一方で実はそれと同じくらい、あるいはそれ以上に

「自分の周りのひとたちの葛藤や苦しみ、今までは見えなかった視点や立場が見えるようになった」

結果でもあるのだろうと、私は思うのだ。

そう、だから私が

のだって結局はその証なのではないかと、私はそう思うのである。

つまりもし「死んでも本当になにひとつ変わらない」とか、あるいは「むしろ自分の苦しみをさらに深く自覚するだけ」なのであれば、まして自殺者ならなおさら、

こんなに苦しいんだから、やっぱり自殺したのは間違いじゃなかった(他に道はなかった)んだ!

と思って、ある意味自分の「正しさ」を再確認することで、部分的にはむしろもっと清々となってもおかしくないはずだとは思わないだろうか?

だが実際には、少なくとも私が関わってきた自殺者は、いずれ必ずその選択を後悔するようになっている。それにもっと言えば、

そもそもそれがどんな選択であれ、「その選択をしたときとまったく同じ気持ちや視点に居続けているのなら、そこから『後悔』が生まれるはずはない」だろう

と思うのだ。そう、つまり

「死んで後悔する」ということ自体が、「死んだら視点や立場が換わる・自分の苦しみだけですべてを語れなくなる」という証なんだ

と、私はそう思っているのである。

そしてこれは結局のところ、

「今のような世界観や常識が根を張った世界において肉体人として生きることが(たとえ本当には自分で決意して選んだ結果なのだとしても)いかに過酷なことなのか」

ということの顕れだとも思う。だから私たちはただその流れに乗り続けるだけで、あまりにも簡単に

「尽きることのない自分の苦しみ」

に呑み込まれて、それに自分の視界のほぼすべてを覆い尽くされてしまう。それは

「他者の想いや葛藤を慮る余裕をなくされる」

ということでもある。だからとても簡単に言うなら

この世でいちばん不幸なのは俺だ!(私が誰よりも傷ついているし、いちばん苦しんでる!)

と思っているひとには、誰の声もほとんど届かないということなのだ。そして私は別に、そんなひとを責めたいわけでもない。だってそんなひとはあまりにもたくさんいるし、それ自体が現状では実に、当たり前のことだとも思うから。

だがその状況は、死を以って一変する。その理由は様々に言えるだろうが、ともかくひとつ言うなら

やはり「死」は「ひとつの人生の終わり」であり、「一応の決着」でもあるから

なんだと私は思う。たとえその最期が、そしてそこに至る生き様がどうであれ、それは結局は「もう2度とないもの」であり、「終わったこと」なのだ。なにはともあれ、自分はもはや「外野の存在」であり、ある種の「引退者」のようなものでしかない。つまりよくも悪くも、自分はもう「中心」にはいないのである。たとえ自分のすべてが消えてなくなったわけではないとしても、少なくとも「いったんはステージから降りた」ということ、それが、「死」の意味なのだろうと思うのだ。

だからそうなった以上は、あなたもいずれ必ず、その「中心・ステージ上にいる主役たち」に眼を向けることになる。それに「自分より先に外野に回っていたひとたち」がたくさんいたことにも、否応なく気づかされることになるだろう。だから必ず、あなたも視点を換えることになるのだ。だからつまり私が言いたかったのは、

死んだから「なんでもわかる」ようになるというわけではない。ただ死んだら「肉体を保っていたときには気づかなかったことにも気づく」ようにはなる。だからあなたも実際に死んだらきっと、今よりもたくさんのことをわかるようになる

ということだったのである。

そう、だから私は

生きていても死んでいても、肉体に宿っていようがいまいが、私たちの本質は決して変わらない

と言いながら、その一方で本当には、死に多くの期待を保っているのだ。だって死んでからのほうが、きっと私たちはもっとすんなりとわかり合えるから。少なくとも今ほどたくさんの誤解や行き違いに苦しむことはなくなるから。だからその意味ではやはり、死にもかけがえのない意味がある。

バカは死んでも治らない

なんて言うのは、大間違いなのだ。私たちは、死んだらわかる。それが、私の率直な実感なのである。

ただこういう私の話を少しでも受け止めてくれたからこそ、あなたはもしかすると

でも「死んでからわかる」って言ったって、結局それが「後悔」につながるんだったら、そんなの哀しすぎるじゃないですか?だからって「納得できないものを納得したフリ」をしたいわけでもないですけど、でもそこまで言うならなんとか、「生きたままわかるようになる」方法はないんですか?

と言いたくもなるかもしれない。だがもしあなたが本気でそう思うなら、それは簡単なことではないが、私も本気で答えたいと思う。

じゃあ、生きたまま死んでみたらいいかもしれないですね

と。

死が私たちの視点を換える大きなきっかけになるのだとしても、いちど死んだら同じ人生に戻ることはできない。いくら生まれ変われるとは言っても、それは毎回それぞれが「違う人生」なのだから、「かつての人生に生き返る」ことはできない。これが

人生は2度とない

という本当の意味である。そして私が言っているのは、

「生きながらにして死ぬ・死んだように生きる」

ということでは決してない。私が

「生きたまま死んでみる」

という表現に込めた意味は、

「自分は昨日(あるいは一瞬前に)死んだ」と思って、ある意味霊になったような気持ちで、自分の「かつての日常」を改めて眺めてみる

ということなのである。

そして実のところ、これは私自身がときどき実践していることでもある。具体的には、

「誰かの肉体を一時的に貸してもらった霊」

になったつもりで、つまり

これは自分のからだではないし、自分の人生でもない。すべてはもう2度と、戻らないことなんだ

と思って、

「霊の立場からすべてを眺めなおす」

ということ、これを私はときどき実践して、自らの認識を引き締めようとしているというわけだ。

だからその意味でもしもっと徹底的にやるなら、

もう自分がなにを言っても相手には聞こえないし、もちろん相手に触れることもできない(自分が借りているのは目と耳だけ)

というつもりで臨めば、この行為の本質にもっと近づけると思う。そしてこれは言うまでもなく、あなたに霊感や霊媒能力があるかどうかにはまったく関係なく、やろうと思えばいつでもできることだ。だからあとはすべて、あなたにおまかせする。それにそもそも、その結果なにが見えるか見えないかもそれぞれだと思うから。ましてどこまで行ってもそれは今のところ、

「一時的なお試し」

にすぎないのだから。

ずっと言っているとおり、私もあなたと同じひとりの肉体人である。これは絶対に、まぎれもない事実である。だが私は確かに霊媒師でもあって、それがあなたとの差を生み出す要素になっているのもまた事実だとは思う。そしてそれは結局、

「どれだけ死を身近に感じているか」

の差でもあるのかもしれない。

だがそれにしても本当には、別に私が特殊なわけではないのだ。だって私たちにはいつだって、死の可能性があるのだから。だからその意味では、死んだらわかるはずのことは、生きていてもわかるはずなのだ。だからこそ私は死に期待しているのと同じくらい、これからの人生にも期待しているのである。それにそうでなければ、私はそもそもここにはいない。だから私はその意味をこれからもずっと忘れずにいようと思う。それが私がこんな人生を望んだ大きな意味のひとつでもあるんだろうと、そう思っているから。

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