「信じる」という跳躍。それは「計算」を超え、だからこそ魂を震わせる

私は霊の実在を信じている。私は死後の世界の存在を、生まれ変わりの存在を、そしてこの人生は自ら望んで選んだものであることを信じている。

しかし私は一方で、

これはあくまで「私の信じているもの」であって、それを今の世界のひとたちと簡単に共有できるわけではない

ということも、もちろん重々自覚している。

たとえば

にもあるように、広い意味で

「なんらかの宗教を信じているひと」

という括りで見れば、それは確かに世界人口の半数を超える「多数派」とも言えるだろうが、その「宗教」が実際にはどれだけ多様であるか、そしてそこから今までにどれだけの「争い」が生まれているかを考えれば、それをひと括りにすることはとてもできないだろう。

それに私個人的には、

少なくとも現代の「文明国」においては、まず第一に「科学」が世界解釈の基盤にあって、「でもそれだけですべてが理解できる(納得できる)わけでもないから、その『補助』としてなんらかの宗教を参考にしている」ということであって、「宗教を世界観の中心に置いている」というひとは、やはり少数派なのではないか?

と思っているし、それはこの日本を見ていると特に感じることである。

さらに言えば、私は確かに「宗教的」(信心深い)と言われるような心性を保っていると言ってもいいとは思うが、一方では

部屋には神棚も仏壇もなく、初詣も墓参りも(誰かに誘われない限り)まず行かない。それに自分が死んだら直葬でいいと思っているし、骨も好きなように葬ってくれてかまわない。要するにできるだけお金のかからない方法でやってほしいし、そうした儀式儀礼の類は、私にはまったく関係ない

と思っているので、そこだけを見ればむしろ

あのひとは、生粋の無神論者なんじゃないか?

と思われる可能性すらあるかもしれない。

だからそんな私がいくら

なぜこれを信じてくれないんですか?

などと言って、その答えを強いたところで、そんなことにはほとんどなんの意味もないだろうと思うのだ。だってあなたが私(の世界観)を信じられないのは、ごく当然のことなんだから。

そしてだからこそそんなことよりもはるかに重要なのは、

なぜあなたは、そんなことを信じ続けているんですか?

という質問に、私が答えることなんだと、私はそう思っているのである。

では、なぜ私は大勢のひとと違う立場になることを承知のうえで、こんなことを信じ続けているのかと言えば、それは

私自身は、少なくともそれなりにはこの世界観を腑に落とし、納得して生きているから

ということなのだとは思う。だがここで重要なのは

じゃあそれを俺にもわかるように説明して、俺を納得させてみろ!

と言われたとしても、少なくとも私がそれに応えることは無理だということなのだ。つまり私は

「信じる」という行為の核心には「跳躍」がある。だからそれは決して「完全に見通しが立った(誰かによってよく整備された)道をまっすぐ進む」ということではなく、むしろ「断絶・大穴への飛躍(ジャンプ)」なしには成立しない「決断」なんだ

と、そう思っているのである。

それに私はさっきは

私自身は、少なくともそれなりにはこの世界観を腑に落とし、納得して生きている

と言ったし、それも決して嘘ではないのだが、だからと言って私が「完全に納得しきっている(信じきれている)」というわけでもない。つまり私は別に、周りの多数派の意見をまったく無視しているわけではないのだ。それどころか、

本当は私が単に狂っているだけなのではないか?

という疑念・葛藤は常にあるし、それは当たり前だとも思う。だからこの「跳躍」(ジャンプ)は、私が今までも今も、そしてこれからも経験していくものなのだ。というかそれが怖いなら、私はこんな生きかたをすべきではない。むしろできるだけ速やかに

「みんなが整えてくれた場所」

に、戻らなければいけないのである。

ただ、そこまでわかっていても私がまだここにいるのは、この生きかたを選んでいるのは、ひとつには

私の退路(それまでの日常)はあるとき崩れ落ちてしまった。だからそれに呑み込まれないためには、前に向かって跳ぶしかなかったんだ

という理由も大きいと思う。だが確かに最初はそうであったとしても、今の私がここにいる理由はそれだけではないだろう。そう、私はやはり

私はなぜあんな経験をすることになったのか、そしてそこから私が引き出した解釈は正しかったのか、その答えをどうしても見つけたい

のだ。それならこれは私の人生なのだから、答えは私が見つけるしかない。だから私は闇に向かって跳ぶことを選んだのであり、今もその道を手探りで模索し続けていると、そういうことなのである。

だからそんな私は、「信じることの怖さ」をよく知っている。私が

信じてください!

と強く言えない理由もそこにある。だってそれは

跳べ!

と言うことだからだ。そんなことは、簡単には言えない。それは本当に、怖いことだから。

ただ一方で今の私は、

本当に怖かったのは、「誰よりも先に(最初に)跳ばなければいけなかったひと」なんだ。だからその意味では「向こうから『跳べ!』という声がする」(向こう岸にも誰かがいる気配がある)というだけでも、その恐怖ははるかにましだとも言えるんだ

と思ってもいる。だから私はここにいるのだ。ここで、声を上げ続けているのである。

とはいえ私だけの力では、あなたの恐怖や不安を消し去るにはまったく足りないだろう。それにそもそも、それは最終的には、あなたが決めなければいけないのである。だから、たとえ私でない誰であれ、それを「強いる」ことはできないのだ。だってこれは、あなたの人生なのだから。私にできることはあくまでもその「補佐」であり、その「主役」であるあなたの意志に反することはできないのである。

それにこれは別に

跳んだほうがいい・跳んだほうが偉い

ということでもないのだ。というかむしろ

跳ばなくてもいいし、それで悪いわけがない

のである。だって実際には、(まだ)跳んでいないひとたちのほうが多数派なんだから。だから跳ばなくてもいい状況なら、跳ぶ必要はない。そしてその状況がどう変わるか、様子を見ていてもいい。それでも、まったく問題はないのである。

だから私はただ、「信じる」ということの意味を改めて確認しているだけだ。それは「怖いこと」で、基本的には「損」である。つまり

得をする保証はどこにもなく、見返りや報酬があるかどうかはわからない。それどころか実際には、徒労や大損、あるいは破滅に繋がる可能性すらある

という意味でだ。だからそのリスクはいくら言っても言い過ぎることはないだろう。しかしだからこそ、

「それでも跳ばずにはいられない」ひとは、跳んでいい。その未知への挑戦は、他のすべてのひとの糧になり、未来を切り拓く礎となるから

ということも確かなのだ。それが、信じることの核心にあるかけがえのない意義なんだと、私はそう思っているのである。

ときどき

信じるに足る理由がない

というような表現がされることがある。だが私からすれば、

「信じるに足る理由」が完全に揃うことは決してない。だってもしそれが本当に揃ったなら、「この先になにがあるのかが明白になった」なら、それは「信じる」という段階ではなく、「計算」の領域なんだ

と思うのだ。

「なんらかの答えが出る見通しがある」のなら、「計算」すればいい。だが「信じる」というのは、それ以前の(ほぼすべてが未知でしかない)段階で生じるものなのであり、だからこそこれはどこまで行っても、本質的に「心(態度・選択)の問題」なのだ。跳ぶかどうかは、自分で決めるしかないのである。

跳んだ先になにがあるかはわからない。もしかしたら、本当はなにもないのかもしれない。だがもしそこになにかがあって、それが多くのひとにとって有益なものと見なされるようになったら、やがてそこには道が作られ整備され、多くのひとの「世界」に組み込まれることになるだろう。実際に私たちは、そうやって進歩成長してきたんだと思うから。

だから別にそのときをじっくり待ってもいいのだ。それに私は別に「計算(をするひと)」を責めているわけでも蔑んでいるわけでもない。むしろ通常は、ほとんどのひとにとっては、それで充分なのである。

だがそのうえで、もし自分がずっと信じてきたことが本当に報われ、しかもそれが多くのひとに役立てられたとしたら、それがいかに素晴らしいことなのかは、きっとあなたにもわかってもらえると思う。だからおそらくはそれが

「信じ続けたひとに対する唯一最大の報酬」

なのかもしれない。

いや、そうではなくて、本当にいちばんの報酬は

「自分が望んだ未来が実現した」

ということにあるのだろう。つまり

私は結局のところ、「自分が見たい未来に向かって跳んだ
(エネルギーを注いだ)」だけなんだ

とも思うのである。だからやはりこれは決して「上下」でも「優劣」でもなく、ただ

「それぞれの選択」

があるだけなのだ。結局は、そういうことなのである。

ただそうしたことをすべて踏まえたうえで

「なにを信じるか」によって、人生は大きく変わる

ということは確かだ。だからその意味で

もしあなたが現状を変えたいなら、「自分が信じているもの」をよく見つめなおしてみるのも大切なことだ

とも言えると思う。今まで通い慣れた道を進むだけでは、景色はさほど変わらないかもしれない。だがだからこそ、もしあなたが大きくジャンプして、新しい道に飛び込んだとしたら、その景色は絶対に変る。つまり、人生が変わるということだ。

だから私は、そんな人生の根幹に関わる大きな選択を、安易に勧めることはできない。ましてそれが「獣道への突入」であるならなおさらだ。だが先にそれを選んだ私としては、

その「予想外の連続」は、よくも悪くも魂を震わせる

とは言える。だからあとは、あなたが決めることだ。それに私は別に

信じてください

とも、

跳んでください

とも言わない。私はただ

どうか、しあわせになってください

と言うだけだ。そう、だからその意味では、私があなたに唯一信じてほしいことは

あなたも絶対に、しあわせになれる。そんな未来を創る力が、絶対に備わっている

ということなのだ。もしそれを本当に信じてもらえたら、私はもうそれ以上なにを言う必要もないと、そう思っているのである。

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